フェミニスト・社会学者の上野千鶴子さんを取り上げます。
上野千鶴子さんは、おひとりさまブームを巻き起こした『おひとりさまの老後』の著者、75万部のベストセラー作家です。
今回は、上野千鶴子さんの旦那について調査します!
上野千鶴子wikiプロフィール
初めに、上野千鶴子さんのwikiプロフィールをご紹介します。
- 名前:上野千鶴子(うえの ちづこ)
- 生年月日:1948年7月12日
- 年齢:75歳(2024年5月現在)
- 出身地:富山県
- 学歴:京都大学文学部哲学科社会学専攻
- 職業:日本のフェミニスト・社会学者(社会学博士)。専門は家族社会学、ジェンダー論、女性学。
開業医の父と専業主婦の母の長女として誕生。5つ上の兄、2つ下の弟、父方の祖母の6人家族で育ちました。
小さなときから兄弟の中でもずば抜けて成績がよく、「体育と音楽以外オール5」で、学校は父親の望む学校へ進学しました。
兄と弟は医者になるため厳しく教育されていたようですが、娘の上野千鶴子さんは「医者はつまらん商売やな」、「食いっぱぐれのない人生はつまらんもんや」と思って、世間の役に立たない人になりたかった。中学のときは考古学者になりたいと思っていたようです。
ひねくれてたから、中学のときは考古学者になりたいと思ってた。父の職業を見てて「医者はつまらん商売やな」、「食いっぱぐれのない人生はつまらんもんや」と思って、世間の役に立たない人になりたかった。
https://kodomoe.net/serial/interview/31997/
気の強い姑とわがままで癇癪持ちの夫に仕えた母親は、子どもに「あんたたちさえいなければ離婚できるのに」といつも愚痴っていたそうです。
母はこまねずみのように立ち働いていました。(中略)だって母は葛藤してたもん。気の強い姑とわがままで癇癪持ちの夫に仕えて、夫婦喧嘩は日常茶飯事。そして、子どもに「あんたたちさえいなければ離婚できるのに」と愚痴る。日本の多くの母親と同じ。だから日本の普通の、最低の母でした。ただ私の母は、毒母のように子どもへの過干渉や支配はしなかった。
https://kodomoe.net/serial/interview/31997/
母親が「こうはなりたくない」というモデルだったので、女性嫌悪を抱えていたと語っています。
母が不満を漏らすと、「それなら、そこから脱すればいいじゃない」と思うのに、母は脱しようとはせずに「お前たちのせいで」と言う。息子と違って娘は、そういう母の非力さを見るのもつらいし、自分を待ち受けている将来が母のような人生だと感じて絶望する。母は完全に「こうはなりたくない」というカウンターモデルだったから女であることを受け入れるのがものすごく辛いミソジニー(女性嫌悪)を抱えてました。
https://kodomoe.net/serial/interview/31997/
関西に出ていた兄と同居するという条件で、京大を受験し合格。学生運動全盛期であり、集団になったときの恐ろしさや、人間の卑劣さを体験し1年間の休学。やる気が起こらないまま大学院へ進んだそうです。
ところが、20代後半で日本女性学研究会に参加した際に、OL、主婦、教師、いろんな職業の人がそれぞれ独立してチャーミングで知的で寛大だったことがわかり、女性観が変わりました。
20代後半の大学院時代に出合ってましたね。日本女性学研究会に誘われたとき、「気持ちわる〜」と思いながら「一回ぐらい付き合おうか」と出かけたら、女たちがとてもチャーミングだった。OL、主婦、教師、いろんな職業の人がいて、みな自立していて、知的で寛大で。
https://kodomoe.net/serial/interview/42679/
母親との関係性から、今までは女性とどう付き合っていけばいいのかわからなかったそうですが、この時の体験がとても楽しく「女が信じるに足りる生き物だと学んで、ひとりでいることから抜け出せた」と女性不信から抜け出せたと語っています。
それまで男と付き合うのは簡単だけど、女とはどう付き合っていいのかわからなかった。でも、おネエさんたちが本当に優しくしてくれて、ケーキ食べに行ったり、ショッピングしたり。どんなに楽しかったか。女が信じるに足りる生き物だと学んで、ひとりでいることから抜け出せた。あの頃の女たちには感謝してもしきれません。
https://kodomoe.net/serial/interview/42679/
女性学との出逢いは、この頃だったようです。
当時お付き合いをしていた男性と結婚を前提に同棲し、1977年3月に京都大学大学院の博士課程を単位取得退学。京大には結局12年も通ったそうです。その後2年間を日本学術振興会研究員として過ごしました。
経歴は、
- 1979年30歳:平安女子短期大学の専任講師として就任
- 1980年32歳:マルクス主義フェミニズムの紹介者・研究者に
- また、思想輸入ではない日本の女性問題史の整備にも努め、1970年代に起きたウーマンリブ運動への再評価を行う
- 1982年34歳:著書『セクシィ・ギャルの大研究』で初メディアデビュー。現代の消費社会を論じるフェミニストとして知られるように
- 1987年39歳:世論を賑わせたアグネス論争にアグネス・チャン側を擁護する側で参入
- 1993年45歳:東京大学文学部助教授に就任
- 1994年46歳『近代家族の成立と終焉』(岩波書店)でサントリー学芸賞受賞
- 1995年47歳:東京大学大学院人文社会系研究科教授就任
- 2011年63歳:東京大学大学院人文社会系研究科教授退職
- 同年4月から認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長就任
- 2013年65歳:『ケアの社会学…当事者主権の福祉社会へ』で東京大学より博士(社会学)を取得
素晴らしい経歴ですね!
上野千鶴子の旦那は歴史家・色川大吉!馴れ初めや入籍した理由は?
上野先生は亡夫の色川大吉とよく似てるよな。 pic.twitter.com/j5erpFJvZB
— 鳥居 満 (@mann_co_high) March 1, 2024
旦那
上野千鶴子さんの旦那についてですが、
23歳上の東京経済大学名誉教授・色川大吉さん
3年半にわたる要介護生活を支えていたのが上野千鶴子さんでした。
婚姻届けを提出した翌日2021年9月7日に、色川大吉さんは死去されました。たった15時間の婚姻関係だったようです。
わたしが色川さんとの婚姻届けを地元の自治体に提出したのは2021年9月6日。色川大吉さんの死亡届は翌9月7日。婚姻届けを出したその翌日の未明、午前3時前に色川さんは亡くなった。婚姻届けをだしてから正味15時間の婚姻関係である。
婦人公論
色川大吉さんのwikiプロフィールをご紹介します。
- 名前:色川 大吉(いろかわ だいきち)
- 生年月日:1925年〈大正14年〉7月23日
- 年齢:享年96歳
- 出身地:千葉県
- 学歴:東京大学
- 職業:東京経済大学名誉教授。歴史家・専門は日本近代史、民衆思想史。
東京帝国大学文学部在学中に学徒出陣で海軍航空隊へ入隊。終戦後に東京大学を卒業し、栃木県の中学校教員を経て
1967年、東京経済大学の教授に就任。
明治期の自由民権運動の広がりを示す「五日市憲法草案」を発見、水俣病患者への聞き取りで歴史的経緯を調査するなど、民衆の視点で歴史を捉え、底辺の民衆の視点を貫いた「色川史学」を確立。
1975年の『ある昭和史 自分史の試み』(中央公論社)では「自分史」という言葉を作り出し、一大ブームを巻き起こし毎日出版文化賞を受賞。
晩年は山梨県の八ヶ岳地方に暮らし、執筆活動や講演を行っていました。
素晴らしい経歴ですね!
そもそもの2人の馴れ初めが気になります。
馴れ初め
2人の馴れ初めについてですが、
1995年に出版された『KAILAS チベット聖地巡礼』で、写真家の松本栄一氏と2人が共著者として取材旅行に行ったことがきっかけと報じています。
きっかけとなったのは、写真家の松本栄一氏が95年6月に出版した『KAILAS チベット聖地巡礼』(小学館)。上野氏と色川氏は、松本氏と共にカイラスを訪れ、同書に共著者として寄稿している。長い旅路の果てに2人は強く惹かれあった――。
文春オンライン
色川大吉さんは70歳、上野千鶴子さんが47歳の時で、東京大学大学院人文社会系研究科教授就任した頃です。親しい友人には色川大吉さんを好きな男性として公言していたといいます。
そんな上野氏が親しい友人に「好きな男性」だと公言していたのが、23歳上の東京経済大学名誉教授で、「歴史学会の巨星」と言われた色川大吉氏だった。上野氏が東大教授に就任した翌年、96年のことだった。
文春オンライン
ですが、色川大吉さんは妻子ある身で、不倫関係だと揶揄されたこともあり、奥様にも知られてしまったと報じています。
それでも二人は1997年に八ヶ岳の麓に約300坪の土地を購入し、共同で137平米の木造一軒家を建てました。
当時、色川先生は妻子ある身で、周囲から不倫関係だと揶揄されたこともあった。2人の関係は、やがて奥さんにも知られることになりました」(知人)それでも上野氏は突き進む。97年10月、八ヶ岳の麓に約300坪の土地を購入すると、翌年8月、彼女は色川氏と共同で2階建て、137平米の木造一軒家を建てた。
文春オンライン
色川大吉さんは自宅を妻に生前贈与し、八ヶ岳に移住。翌年には妻子と別れ「おひとりさま」になりました。
上野千鶴子さんは、東京と八ヶ岳を足繁く通ったそうです。
当時73歳の色川氏は、妻と住んでいた八王子市内の一軒家の一部を妻に生前贈与し、八ヶ岳に移住。翌年には所有していた東京都渋谷区のマンションの一室も売却した。妻子と離れ、“おひとりさま”になった色川氏のもとに足繁く通ったのが、当時50歳の上野氏だったのだ。
文春オンライン
お付き合いは20年以上だったようですね。
入籍した理由
2人が入籍した理由は、
日本の法律が家族主義であり、入籍していたほうが役所などの手続きが円滑だから
色川大吉さんは転倒事故で大腿骨を骨折し、車いす生活となりました。3年半にわたる要介護生活を支えたのは上野千鶴子さんでした。
コロナ禍もあり、上野千鶴子さんは八ヶ岳の色川さん宅へ疎開。色川さんの介護を取り仕切るキーパーソンとなりました。
ですが、各種手続きをする際にいちいち「ご関係は?」と聞かれ、家族でないことで面倒な思いや嫌な思いをしたそうです。
散々面倒な思いや、嫌な思いをしたあとで、これは家族主義の日本の法律を逆手にとるしかないと思い至った。
婦人公論
2人は死亡後のことを何度も話し合い、籍を入れることに。後に残る上野千鶴子さんが不利益を被らないようにと、色川さんは自分の姓を変えることに同意し、上野大吉さんになったと言います。
そんなお二人ですが、色川さんが第三者に上野さんを紹介するときに一番うれしい言い方は「ボクの親友です」という言葉だったそうです。
色川さんが第三者にわたしを紹介してくれるときのいちばんうれしい言い方はこうだった。「このひとはボクの親友です」
婦人公論
男女を超えた繋がり、同士のような絆があるように感じますね。
色川大吉さんの長男は、2023年の文春の取材に対し、「二人は志を同じくしていた」「父親は世界中を歩き、業績を積み重ねていった、誇りですよ」と語っています。
不倫関係ではない?「それはないと思いますけどね。何か志を同じくしていたんじゃないですか」
――どんな父親だった?「ちっちゃい頃から世界中を歩いている方ですからね。家にいる、家庭的な人じゃないですよ。基本的には外にいる人だから。でもそうやって業績を積み重ねていった。誇りですよ」
文春オンライン
上野千鶴子さんは、色川大吉さんの追悼本『民衆史の狼火を―追悼 色川大吉』で「このひとの晩年に、共に時間を過ごすことができたことは、わたしにとってえがたい幸運でした」「家族をつくらなかったわたしが、これほどの深さで受け止めた思いを遺してくれたのは、色川さん、あなたです」と一文を残しています。
昨年5月に出版された色川氏の追悼本『民衆史の狼火を―追悼 色川大吉』(不二出版)に、上野氏はこんな一文を寄せている。〈このひとの晩年に、共に時間を過ごすことができたことは、わたしにとってえがたい幸運でした。(略)家族をつくらなかったわたしが、これほどの深さで受け止めた思いを遺してくれたのは、色川さん、あなたです〉
文春オンライン
素敵ですね。
お読みいただきありがとうございました。
今後の益々のご活躍をお祈りいたします。
コメント
コメント一覧 (2件)
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